アドリブについて


ジャズというと自由な音楽というイメージがあると思う。
アドリブはその醍醐味であるが、自由とはいえいろんな理論の上に成り立つものといえよう。
アマチュアの方々は理論というと堅く難しいというイメージがあると思うが、そんなアドリブをもっと身近に簡単にできないだろうか?
ここではそんなアドリブについてお話してみよう。

ジャズの起源
なぜ理論書を読んでもアドリブができないのか?
アドリブとは


ジャズの起源

ジャズのアドリブの起源についてちょっと考えてみるのも面白いと思う。ジャズの起源、それはもともと奴隷としてアメリカに連れてこられた黒人たちの間から生まれたものである。そもそも、黒人たちにとっては何の音楽の理論はもちろん、楽器の取り扱い方すら知らなかったはずだ。黒人たちのDNAであるリズム感と、後天的に白人たちから学んだとはいえないが、耳にし慣れしたしんだ教会の音楽、また、ヨーロッパの民謡など西洋の音階との融合による副産物である。西洋の音楽を見ようみまねで自分たちのリズムで演奏し始めたのがジャズである。そこには基本的な音楽の理論などあるわけがない。歌をそのまま楽器で表しただけである。多分最初のうちは、メロディーを中心に、黒人たちのリズムを交えて演奏されたと考えられる。基本的に黒人たち一世は五音階でしか歌が歌えなかった。セントルイスブルースの冒頭の部分に代表されるように、もともとあのマイナーの部分は、メージャーだったのだ。どうしても長3度のミの音が下がりマイナーすなわち短調になってしまった。どうしてもメージャーの長三度が歌えなかったのだ。これがブルーノートの始まりである。黒人たちも二世三世になると後天的に西洋の音階が体に入ってくる。また逆に、白人たちにも形を変えながらも黒人たちのリズム感が浸透していく。初めて20世紀最大の芸術ジャズが誕生したのだ。したがって、そこにはジャズの理論などなかった、ただ確かなことは最初に「歌ありき」といえるだろう。

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なぜ理論書を読んでもアドリブができないのか?

山ほどもあるジャズの理論書を読んでなぜアドリブができないのだろうか?
音の重ね、配列などは小学4年生程度の能力があれば、まる覚えであるならできるはず。 ではなぜ議論書だけではアドリブができないのだろうか?理論書には1番肝心なことが書いていないのである。1番肝心なこととは「耳」のことだ。音楽は耳を抜きにして成立しない。耳を鍛えなくてはならない。日本においてはひとつ大きな問題がある。現在の音楽教育はすべて「固定ド」で教えている。何が問題かというと、音名と階名が同じである。音名とは440サイクルの音は「A」であるが、それを全部「ラ」で教えている。
ドレミファソラシドとハニホヘトイロハを分けて教えなくてはならないはずだ。これが同じになっているので皆大きく迷うのである。皆さんに分かりやすく説明すると、建物の高さを全部「海抜」で表すようなものだ。ビルの階数は、「海抜」で現すことはない。早い話が、都庁のビルの8階、箱根の山のホテルのビルの8階とでは高さが違うはずだ。これを全部海抜で表してしまったことになる。子供の教育というのは恐ろしいもので、いったんを覚えてしまったものはそれを変えるのは大変難しいことだ。もしこれが文部省の方針ならば、大問題である。これからでも遅くないのでなんとか音名と階名の区別をつける教育をしていただきたい。「責任者出てこい!」声を大にして言いたい。音名と階名は絶対に違うということを皆さん心をしなくてはならない。
 アドリブができないという1つの大きな理由にこの「固定ド」教育に起因するところがあるのではないだろうか。
 では次に「鼻歌」「口笛」を分析、すなわちアナライズしてみよう。完全な絶対音感のある人は話が別だが、不完全な絶対音感、あるいは「移動ド」の人たちが無意識に鼻歌を歌うときに、いちいちこれが何調またこれが4分の4拍子だのと考えずに歌っているうことと思う。たぶんその時は「移動ド」も「固定ド」なく無意識で歌っているはずだ。大切なことはこの無意識である。現在の音楽環境はわれわれ子供時代(現在56歳)から考えると雲泥の差を感じる。目が覚めてから寝るまで音楽のないところを探すほうが難しい。従って現代の若い人達の音感とリズム感は素晴らしいものがある。その若者たちの無意識の音感はいうなれば宝の山だ。
 問題はその宝の山から宝をどうやって引っ張り出すかである。もしこれが「移動ド」という便利なものを使うことができたら、それがたとえアドリブでなくても作曲の方に大いに役に立つと思う。役に立つというよりもう少し簡単にできるはずだ。今の若者たちはどうやって作曲をしているのだろうか。何回も言うようだが完全な絶対音感があれば話は別だ。実際のところ相当数の人が絶対音感を持っている時代とはいえ、まだまだその絶対数は少ない。
 頭に浮かんだメロディーを何かの方法で伝える時にやはり「移動ド」というのを利用するのが1番良い方法ではないか。今無意識という言葉が出たが、この無意識というのは、頭の中にピアノが1台入っているのと同じことである。鼻歌、口笛というのはこの無意識のピアノを無意識のうちに弾いていることだ。この無意識を意識の下に置くことがひとつの大きな音楽家としての重要な課題だ。無意識のピアノを意識して弾くことができれば、もうこれは立派なアドリブである。あとはそれがジャズであろうがロックであろうがその人のフィーリングさえあればそれをそのまま表現すればよいのである。このことと外国語を習う時とを比較してみよう。音楽と言葉は非常によく似ている。例えば英語の勉強をするときに、子供時代にアメリカにいたとすれば、改めて勉強をしなくても英語がしゃべれると思う。子供時代にアメリカに行ったという条件を音楽に当てはめてみると、朝から晩まで音楽の中で育ったのと同じことである。したがって、英語を習う場合と音楽とを比べると、音楽の方には無意識という大きな味方がいる。大人になってから英語を習う場合は、もうこれは絶望的に下地がない。幸い音楽の方は無意識という大きな可能性を秘めている。英語をしゃべるのは不可能でも音楽ならなんとかなるのではないか。
 みんなには目覚めていただきたい。
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アドリブとは

ここで改めてアドリブについて考えてみよう。1口で言ってアドリブとは瞬間作曲である。
瞬間作曲といえどもひとつの流れにそわなくてはならない。ひとつの流れとは例えば芝居でいえばストーリーである。また音楽に戻るが、流れと言ってもそんなに無作為に何のきまりもなく存在するものではなく、生理的にも、人間の本能に沿ったコード(和音)の流れがある。よく音楽の教養のない人が、作ったコード進行などはかなり無理がある場合があるがよく調べてみるとその根底には、コードネームが違うだけで機能としては結構ノーマルなものである。アドリブというのは場面場面があるもので、例えばロック、ジャズ・クラシック、音楽の種類ジャンルによってもニュアンスは全ったく変わってくる。
例えばなしばかりで恐縮だが、音楽のジャンルとは一言でいえば、時代によっての言葉遣いの違い、その国によっての言葉の違い、お互い人間関係立場によって、言葉の使い方の違い、そのような背景がある。したがっ
てストーリーさえあっていればどのような言葉を使って良いというわけではなく、時代背景、人間関係、その場の雰囲気にそぐわなくてはならない。ディキシーランドジャズとモダンジャズ、スイングジャズ、ロックミ
ュージック、これが私の言う立場人間関係時代背景である。場面場面によって使う言葉の違いが明らかである。
 もしここで適切なるアドバイスをするとすれば、アドリブとはその和音に対しての音階を見つけることといってよいだろう。各コード進行に対して、決まったが音階あるともいえるし、幾とおりかの音階を選択できる。音階を見つけるということは調性の決定である。
こう言ってしまうと難しくなるが、そのを和音に対してある音階でメロディーを作曲すればよいのである。その音階を決定するのはもちろん自分であるまた、自分独自の音階を見いだすことができたら最高だ。一つのヒントとして外国語の場合、自分の知っている言葉だけで用を済ます、グッドモーニング、サンキューベリーマッチ、グッドバイ、ハングリー、たとえばこれだけの言葉でも何とか死なずにはすむ。

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