第四章
■英二郎とトロンボーン前編■
 あらゆる楽器を取りそろえた中川家であるが、不思議なことにトロンボーンだけがなかった。有るにはあったのだが父が友人に貸していたのだ。いつもの様に英二郎は父のライブハウスについて行く毎日だったが、五歳半となったとある日、バンドがその日の最後に「Sing Sing Sing」を演奏した。英二郎の顔が固まったのだ。

「パパ、あの曲の最初のところで使っている楽器の名前何というの?」
その目が輝いているのだ。

「ああ、あれはトロンボーンという楽器だよ」と父。
「トロンボーンっていうの? あれを吹いてみたい」
「あぁ、あれなら友達に貸してあるよ、すぐに手にはいるさ」

ライブから家に帰る車中でも、しきりにトロンボーンのことを聞くのだ。

「あの楽器は難しいの?」
「英二郎はまだ小さいからなぁ、手が届かないかもしれないぞ」
「早く吹いてみたいな」
いったんほしいとなると待ちきれない性格は大人になっても変わらない。

 父が貸してあるという貸出先は日本トランペット界の代表的なプレーヤー・数原晋だ。早速父は訳を話して楽器を返してもらうことにした。待ちきれないのは英二郎の方だ。

「ねぇパパ、トロンボーンてどうやって吹くの?」
「どうって、コルネットと一緒、ただマウスピースが大きいだけだよ」
「あんなに形が違うのに一緒なの?」
子煩悩な父はその共通点を英二郎に教えた。

「コルネットのピストンを全部はなしたときは、トロンボーンでは1のポジションといって、スライドを一番手前に、ピストンの真ん中を押さえたときは、トロンボーンでは2のポジションだよ」
「ふーん」
理解したのか理解してないのかは父にとってはどうでも良かった。中川家にたくさんある楽器が、ただ一つ増えただけだ。次の日も父の顔を見るなり、

「トロンボーンまだ? ドレミファソラシドはこうやってやるんだね」
器用にもコルネットのドレミファソラシドをトロンボーンに置き換えて父に見せている。

父と数原晋のスケジュールの都合で結局楽器が手に入ったのは一週間後だ。英二郎にとって、一週間はとてつもない長い時間となった。父と顔を合わせるたびに、

「楽器まだ、トロンボーンまだ?」

「どうせすぐ飽きるさ。」とは声には出さないが口の中でつぶやいた。待ちに待った一週間が経ち英二郎の手にトロンボーンが渡った。父がびっくりしたのはそのときだ。深夜の1時だというのに英二郎はむくむくと起き出してきた。眠い目をこすりながら、

「これがトロンボーンだね」

感激で目が輝いている。さらにここで父はまたまたびっくりするのだ。トロンボーンを組み立てるのももどかしそうに、いきなり「聖者の行進」を吹き始めた。父の部屋は防音室になっているので深夜でもいっこうにかまわない。それよりなにより父は、
「何だこいつ!」驚きの方が先だ。これから父は何回となく驚かされる事になるのだが、なんといってもこれが最初だ。

 五歳半といえば、幼稚園の年長。相変わらずコルネットを吹いたりトロンボーン吹いたり、ドラム、ベースとてあたりしだいに楽器を引っ張りだす。もう、それはむちゃくちゃとしかいいようがない。このころになると簡単な曲はコルネットでステージに上がったりしていた。「聖者の行進」だったり、「ユーアーマイサンシャイン」、「リパブリック賛歌」、後はディキシーランドジャズの簡単な曲を数曲マスターしていた。

そんなとき幼稚園の先生から英二郎に、
「卒園式に何か演奏していただけませんか」
本人にその話をすると恥ずかしがるでもなく、
「あぁ、いいよ!」
ステージ度胸だけはもう立派な物だ。早速父は、幼稚園の先生用オルガン伴奏のアレンジをする。本番は難なくこなし、その演奏は先生のオルガンをリードするといった感じだった。この一件を境になぜかコルネットからトロンボーンへと本命の楽器が移行していくのだ。トロンボーンの方が素直に自分を表現できるからだろう。

 小学校に上がるようになってからは、二週間に一曲の割合で著名なジャズトロンボーンプレーヤーのレコードコピーをノルマにこなすようになった。マスターしたレコードコピーはその週のライブハウスで演奏する。恵まれたといえば恵まれている環境だ。

 ディキシーランドジャズでは有名な、ルー・マグワリティー、(1917−1971/ジョージア州出身)、カティ・カショール、ターク・マーフィー(1915−1987/カリフォルニア州出身)、キド・オリー(1886−1973/ルイジアナ州出身)、と次々に消化していった。日本のトロンボーンプレーヤーとて例外ではない。薗田憲一(1929〜)、向井慈春(1949〜)、小学三年生の頃にはディキシーランドジャズではコピーするトロンボーンプレーヤーがいなくなってしまった。こうなると残りはあのトロンボーンの神様的存在のジャクTガーデンだけだ。

ジャクTガーデンといえばディキシーランドジャズトロンボーンプレーヤーのあこがれの的だ。日本でも多くのトロンボーンプレーヤーが手本としている。
日本においてのジャズトロンボーンの草分けというと、森亨がいる。森亨の得意としていた「ベーズンストリートブルース」に挑戦する時がきた。

 英二郎 八歳のときである。父としては、今までのコピーしたトロンボーンとは難易度が違いすぎる。ということで「だめもと」の気持ちでレコードから採譜をした。なんとなんとその週のライブの日には、何となく形になっていた。本人は平然としていたが、驚いたのは父ばかりでなく、その時一緒に演奏したミュージシャン達だ。あの名士、森亨がコンサートでも一番盛り上がった時に演奏されていた曲である。他のトロンボーンプレーヤーも手こずる難曲を八歳の英二郎が吹いてしまった。この噂はたちまち各方面に広まった。このことがきっかけでいろいろな方面から出演の依頼がくるようになった。一番多かったのは小、中、高等学校からのゲスト出演だ。

 そんな中、東京は浜松町にある郵便貯金ホール(現・メルパルクホール)で開催された日本金管フェスティバルにゲスト出演が決定した。ジャズオーケストラをバックに「ベーズンストリートブルース」を演奏することになった。英二郎は「ケロッ」としているがオーケストラをバックにということになればこれから新たにアレンジをしなくてはならない。
ジャックTガーデンの「ベーズンストリートブルース」といえば延々と吹いた後に、カデンツァが有り、さらに最後にトロンボーンでは高音、加線7本の「ハイD」を吹き延ばさなければならない。あのトミードーシーの「センチメンタルオーバーユー」の一番高い音でさえ「その音」の半音下だ。
「やはり断ることにしようか?」英二郎に聞いてみるが、
「何とかなるんじゃない?」
返ってきた答えがこれだ。怖さを知らない子供とはいえ、
「大胆なやつじゃ!」
父の方が緊張している。
 2,3度ジャズオーケストラとのリハーサルも無事終了し、本番を迎えることになった。相変わらずそわそわしているのは父の方だ。

 会場割れんばかりの拍手で迎えられ、いよいよ演奏が始まった。ステージの袖で手に汗して見守っている父をよそに、トロンボーンと同じぐらいの背丈の英二郎は堂々としたものだ。メロディー、アドリブ、最後のカデンツァまでは無事に到達した。
オーケストラ全員が休止符に従いブレイクする。英二郎ひとりがステージに投げ出された感じだ。トロンボーンが「ハイD」を出さなくてはオーケストラはエンディングに入れない。
 プロでもやっと出るかでないかの「ハイD」だ。唇の疲労もピークに達している。父のほうはもうステージなど見ていられない。
「出た!」会場は一斉に沸いた。すごい拍手だ。バンドのメンバーも手がたたけない分、足を踏みならしている。日本ジャズトロンボーン界に新しいヒーローの誕生だ。

 このことがきっかけで「せっかくだからクラシックの勉強もする方が良い」との主催者の薦めもあり、東京芸大の教授でもあり、当時NHK交響楽団の主席トロンボーン奏者、伊藤清先生にレッスンをしてもらうことが決まった。ジャズとクラシックの二足の草鞋だ。英二郎にとってはそのことは何の苦にもならないようだ。

 父も仕事が忙しく英二郎ばかりみてるわけにもいかない。父と英二郎は一つの約束をした。学校から帰って遊びに行く前に、必ずメージャー、マイナー24のスケール(音階)を2オクターブ、24のアルペジオ(分散和音)を2オクターブの、ノルマを約束した。これだけ全部やると少なくとも1時間はかかる。
 そんなある日、玄関先に英二郎のサッカー仲間がボールをもって待っている。
「一時間は待たされるよ」といっいる矢先に五分ほどでトロンボーンをやめて出てくるのだ。
「スケールとアルペジオは?」
「全部やった」すました顔でいう。
「24個全部やったのか?」
答えるか答えないうちに友達とともにその姿は見えなくなった。

 次の日、トロンボーンの練習をみることにした。驚いたことに確かに約束は守っていた。が、父の予測とはずれたのは、そのテンポの違いだ。ダブルタンギングで「アッ」というまに、わずか五分で練習を終了していたのである。父はただ苦笑いするばかりであった。
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